今日は年末休業のせいか、街全体がゆっくりしてる気がする。
いつもは5:30には起きてるのに、今朝は6:30に起きても「まだ早いか?」って思ったくらい。
でも、休みだからって仕事が止まるわけじゃない。
請けてる以上は、どう納品して、どう未来につなげるかを考えるのも仕事のうちだよなと。
昨日も考えてたけど、
未来に起こす仕事を生み出す行動をするかしないかなんて、結局は自分次第。
現状、めちゃくちゃ満足のいく依頼ばかりってわけでもないし、
会社の資金が潤沢に回ってるわけでもない。
この現実は忘れちゃいけない。
でも、だからって失敗を恐れて動かないのは、逆に損だよなとも思う。
「待ってればそのうち仕事が来るかも」なんて口を開けてても、
依頼も相談も降ってくるわけがない。
待ってるだけじゃ会社は発展しないし、自分も苦しいだけ。
やっぱり
「一流は仕事を生み出す」
これができて初めて、独立した経営者なんだろうな。
クリエイターであり、経営者であること。
まずはここをちゃんと達成していこう。
今の自分の生き方は、過去の自分が選んできた行動の積み重ねにすぎない。
だったら、これから未来を良くする行動を積み重ねていけば、
これまでとは違う未来が訪れるはず。
そう思わない?
自分の持ってるスキル、人脈、環境。
全部活かして、未来がよくなる行動を今日も積み重ねていこう。
子どものフィギュアスケート衣装をつくる中で、ずっと悩み続けてきたテーマがあります。 それは「値付け」です。 相場に合わせるべきなのか。 お客さまの事情に寄り添うべきなのか。 技術や経験に見合った価格を貫くべきなのか。 この問いは、僕にとって単なる“お金の問題”ではありませんでした。 最近になって、ようやく気づいたことがあります。 値付けは、パーパス(存在意義)と深く結びついている。 むしろ、パーパスをもっとも正直に映し出す鏡だということ。 パーパス経営とは「何のために存在するか」を決めること 以前、僕は自分の会社のパーパスについてブログを書きました。 衣装づくりを通して、何を守り、何を未来に渡したいのか。 その軸を言語化したものです。 これが、僕のToecrosでのパーパスです。 値付けは、そのパーパスを“社会に翻訳する行為 パーパスが理念だとしたら、 値付けはその理念を現実に落とし込むための“実装”です。 どれだけ美しい言葉を掲げても、 値付けがそれに反していたら、パーパスは崩れてしまう。 だからこそ、 値付けはパーパスに対する覚悟の表明なんです。 技術を守るためには、適正価格が必要 僕の衣装づくりは、ただ縫うだけではありません。 こうした“考える時間”も、作品の一部です。 そして、 この思考の深さは、効率化できない。 大量生産にも置き換えられない。 だから、適正価格は技術を守るための最低条件。 パーパスを守るための必然でもあります。 時代に逆行しても、守るべき価値がある 今は効率や安さが求められる時代です。 手仕事に時間をかけることは、時代錯誤に見えるかもしれない。 でも、僕はそれでいいと思っています。 なぜなら、 衣装づくりは“未来へ繋ぐ技術”であり、 子どもたちの表現を支える“芸術”だから。 パーパスを守るためには、 時代に逆らう勇気も必要です。 理解してくれるお客さまがいることが、何よりの支え ありがたいことに、 僕の価値観を理解してくださるお客さまがいます。 「この衣装じゃなきゃダメなんです」 「この子のために、ここまで考えてくれてありがとう」 そんな言葉をいただくたびに、パーパスと値付けが一本の線でつながる感覚があります。 僕は、ただ衣装をつくっているのではなく、 その子の人生の一瞬を形にしている。 その事実が、値付けの迷いを少しずつ溶かしてくれます
子どものフィギュアスケート衣装をつくるようになってから、ずっと悩み続けていることがあります。 それは“値付け”です。 相場に合わせればいいのか。 お客さまの事情に寄り添って柔軟に変えるべきなのか。 それとも、技術や経験に見合った価格を貫くべきなのか。 正直に言えば、いまだに迷う瞬間はあります。 でも、ひとつだけ確信していることがあるんです。 僕が積み重ねてきた技術と、唯一の衣装を生み出す意味は、数字だけでは測れないということ。 技術には“時間”が宿っている 衣装をつくるとき、実際に手を動かしている時間だけが価値ではありません。 こうした“考える時間”も、作品の一部です。 僕は感情を商品に直接のせることはしません。 でも、作品の中にだけは、どうしても感情が滲みます。 それは避けられないし、避けるべきではないとも思っています。 「時代錯誤」と言われても、守りたい価値がある 今の日本は物価高の時代で、安さや効率が求められがちです。 そんな中で、手仕事に時間をかけ、唯一の衣装をつくることは、 「時代に逆行している」と思われるかもしれません。 でも、僕はそれでもいいと思っています。 なぜなら、 衣装づくりは“後世に繋ぐ技術”であり、“センスの継承”でもあるから。 そして何より、フィギュアスケートはスポーツでありながら、 総合芸術だと感じているからです。 選手が衣装と一体になった瞬間、 その子の世界がリンクの上に立ち上がる。 その一瞬のために、僕は針を持っています。 理解してくれるお客さまへの感謝 ありがたいことに、 僕の価値観や技術の意味を理解してくださるお客さまがいます。 「この衣装じゃなきゃダメなんです」 「この子のために、ここまで考えてくれてありがとう」 そんな言葉をいただくたびに、 値付けの迷いが少しだけ晴れます。 僕の仕事は、ただの衣装制作ではなく、 その子の人生の一部を形にすることなんだと気づかされるから。 値付けは、作品の外側にある数字ではない 値段は、単なる金額ではなく、 作品の意味を守るための境界線だと思っています。 安くすればいい
最近、言葉そのものがアートなんだと気づきました。 小説や文学は、言葉だけで構成されているのに、読んだ人の頭の中にはそれぞれ違う風景や人物が立ち上がる。 同じ文章でも、読む人の人生や感情によって全く違う世界が生まれる。 そこに、言葉のアートとしての本質があるのだと思う。 この時代は、映像も音楽も情報も溢れている。 五感をフルセットで刺激する作品は、丁寧に作られていて、確かにすごい。 でも、全部を提示されると、こちら側が考える余白がなくなる。 ただ受け取るだけで終わってしまうこともある。 余白があるからアートになる 言葉だけ。 映像だけ。 音楽だけ。 どれか一つだけで提示されると、残りの部分は受け取る側の想像に委ねられる。 その「あなたの解釈で感じてよ」という余白が、アートの楽しみ方なのだと思う。 未完成なのか、完成なのか。 その曖昧さが魅力になる。 自分の言葉で補い、自分のイメージで埋める。 そこに“参加している感覚”が生まれる。 アートは、作り手と受け手が一緒に作るものなのかもしれない。 まとめ 丁寧に作られた五感フルセットの作品も素晴らしい。 でも、余白のある表現にこそ、人は自分の感情や記憶を重ねられる。 その瞬間に、アートは「自分ごと」になる。 言葉だけで世界を立ち上げる文学が今も残っているのは、 人間が本質的に「余白を楽しむ生き物」だからなのかもしれない。 最後に 僕の仕事は、とてもアナログな衣装づくりです。 布の質感、縫い目の揺らぎ、手で作る不完全さ。 そこに「人が作るものの魅力」が宿ると信じています。 もし、衣装づくりや“人の手で生まれる表現”に興味があれば、ぜひこちらでつながってください。 日々の制作の裏側や、考えていることを共有しています。 LINE 公式LINE お友達募集です。 Follow me! @defhiro_stf