最近、言葉そのものがアートなんだと気づきました。 小説や文学は、言葉だけで構成されているのに、読んだ人の頭の中にはそれぞれ違う風景や人物が立ち上がる。 同じ文章でも、読む人の人生や感情によって全く違う世界が生まれる。 そこに、言葉のアートとしての本質があるのだと思う。 この時代は、映像も音楽も情報も溢れている。 五感をフルセットで刺激する作品は、丁寧に作られていて、確かにすごい。 でも、全部を提示されると、こちら側が考える余白がなくなる。 ただ受け取るだけで終わってしまうこともある。 余白があるからアートになる 言葉だけ。 映像だけ。 音楽だけ。 どれか一つだけで提示されると、残りの部分は受け取る側の想像に委ねられる。 その「あなたの解釈で感じてよ」という余白が、アートの楽しみ方なのだと思う。 未完成なのか、完成なのか。 その曖昧さが魅力になる。 自分の言葉で補い、自分のイメージで埋める。 そこに“参加している感覚”が生まれる。 アートは、作り手と受け手が一緒に作るものなのかもしれない。 まとめ 丁寧に作られた五感フルセットの作品も素晴らしい。 でも、余白のある表現にこそ、人は自分の感情や記憶を重ねられる。 その瞬間に、アートは「自分ごと」になる。 言葉だけで世界を立ち上げる文学が今も残っているのは、 人間が本質的に「余白を楽しむ生き物」だからなのかもしれない。 最後に 僕の仕事は、とてもアナログな衣装づくりです。 布の質感、縫い目の揺らぎ、手で作る不完全さ。 そこに「人が作るものの魅力」が宿ると信じています。 もし、衣装づくりや“人の手で生まれる表現”に興味があれば、ぜひこちらでつながってください。 日々の制作の裏側や、考えていることを共有しています。 LINE 公式LINE お友達募集です。 Follow me! @defhiro_stf
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